河内どんこう掲載のグラビア写真を中心に「やお文化協会のあゆみ」を紹介します。
八尾、そしてふるさと河内を愛した、諸先輩の活躍を思い出して頂ければ幸いです。
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● ふるさと八尾/八尾天満宮「鬼追いまつり」 昭和52年(1977)1月
 ○ たいまつを持った鬼役は、元気な近所の子供たち
河内は、日本の原点とも言うべき歴史を持っている。それだけに、「ふるさと」を見直すこと、そして祖先の歩いてきた道をたどることによって、次の飛躍が生まれるのではなかろうか。(専務理事 伊藤光生記)
 ○ 鬼追いまつり役員の方々
● 河内弁論争/「河内のオッサンの唄」で 昭和51年(1976)9月
 ○ 人気テレビ番組イレブンPMに出演の明石裸人氏
やお文化協会が「河内のオッサンの唄」に抗議の声明を出すことにより、予想以上に全国にその波紋が広がり、一部のテレビ局や週刊誌は、冒涜した歌詞を当然との態度を示した。しかし、郷土の誇り「河内弁」を守るエネルギーが、この八尾そして河内で一気に膨らんだできごとであった。
● やまんねき50年前を語る「恩智の古老から聞く郷土のはなし」 昭和51年(1976)10月
やお文化協会は、河内弁論争の始まる前から、郷土の正しい方言を残すために古老の座談会を開催、これをソノシートに残す計画を立てた。八尾発祥の地といわれる恩智地区の70歳以上の老人男女8名が招かれたが、話に花が咲き座談会は実に2時間半に及ぶ。結果、6分半予定のソノシート計画は中止された。
● 「河内県庁跡碑」除幕式/大信寺梅林にて 昭和51年(1976)12月
 ○ 貴島正男会長が参加者にごあいさつのひとコマ
明治2年1月、河内県庁が八尾御坊大信寺に置かれ、税所 篤が河内県長官として赴任した。新政府は、大阪の地の支配をめぐって、大阪府、堺県、河内県、摂津県と府県を設置、統廃合を繰り返した。明治2年8月、わずか数ヶ月で河内県は廃止され、河内の行政は堺県へ引き渡された。
● 「河内の歴史を語る」座談会の風景 昭和52年(1977)4月
久宝寺寺内町をはじめとして、八尾及び萱振の寺内町、大阪冬の陣、夏の陣における八尾の位置、徳川時代に入って大和川付替え工事の規模の壮大さと義人中 甚兵衛、その影で大きな力となった代官万年長十郎など、興味深い話が続いた。
11、やお文化協会『河内のことば辞典』を発行 昭和52年(1977)5月
「河内のオッサンの唄」に端を発した「河内弁論争」は、逆に河内の人間が河内弁を真剣に勉強し直すまたとない機会になった。「河内のことば」ひとつひとつを正確に掘りおこし、その源を研究する作業には時間がかかったが、河内弁への愛着を噛みしめる楽しい作業でもあった。
● NHKドラマ「河内まんだら」 昭和52年(1977)5月
主演の藤田まこと氏と「河内の人情」を語る、やお文化協会伊藤光生専務理事と阿部孝事務局長
 ○ 河内まんだら テレビ風景 ○ テレビドラマのタイトルは榊 莫山氏の筆による
● 高安城を探る会が高安城倉庫礎石を発見 昭和53年(1978)4月
 ○ 高安城倉庫跡2号礎石を調査する会員
千三百年前、大和朝廷が築いたと伝えられる「まぼろしの」古代山城の遺構が、自主的市民組織「高安城を探る会」(棚橋利光会長 250名)の、二年、50回を越える山林探査で見事発見された。これまで多くの研究者が求めて得られなかったものを、素人の市民が成し遂げたのだから大変。当時、すべてのマスコミは、興奮のうちにその快挙を伝えた。
棚橋さんはやお文化協会参与として、河内どんこう各種座談会に常に参加され、協会創立当初から大きな役割を果たされている。
 ○ 高安城倉庫跡2号礎石現地説明会
 ○ 探る会20周年として現地に礎石説明板を設置
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