■ 史跡など まちの風景 あれこれ その1 参考資料
 「新版八尾の史跡」 昭和62年八尾郷土文化研究会編
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1. 「河内木綿伝承の地」記念碑(八尾市光町)
河内木綿は河内一帯、とりわけ八尾を中心に生産されてきた歴史が残る。その歴史的な価値を再認識し後世に伝承するため、昭和58年11月、近鉄八尾駅前噴水公園に記念碑が建立された。河内木綿が黄金期を迎える元禄年間(1700年代初頭)には、遠く近江、北国筋まで取引きされ、以降百数十年間、河内の地場産業として活況を呈した。しかし、明治中頃以降の近代紡績業の発達とともに、安い輸入綿に市場を奪われ、衰退の一途をたどった。
2. 郷塾「環山楼」(八尾市本町)
環山楼は江戸時代中期、当時八尾の豪商であった石田利清の設けた私塾であった。創建の年代は詳かではないが、塾の命名は、享保十二年(1727)京都堀川の儒者伊藤東涯が、この地に招かれ講義のあと一泊、このとき学舎から高安、二上、金剛の山並みを一望し、その景観をめで環山楼と名づけたといわれる。石田利清の字は善右衛門、賢明にして弁舌をよくし、その知識才能は郷土一円に名高く、私淑する者が多かった。現在、八尾小学校校庭内に移築され郷塾安住の地となった。
3. 常光寺(八尾市本町)
初日山と号し、臨済宗南禅寺金地院末。八尾地蔵で名高い。行基の創建で聖武天皇の勅願所となり、寛治二年(1088)には白河法皇が参詣された。南北朝の戦乱で焼かれ、元中二年(1385)又五郎大夫藤原盛継が復興した。同六年将軍足利義満が当寺に参詣、造営料木を寄進、常光寺の扁額を揮毫した。その後、徳川家光後歴代将軍から朱印状を受けている。足利義満内書をはじめ、古文書が多く存在する。
4. 地蔵尊盆踊りの風景(八尾市本町)
常光寺で、毎年8月23日、24日の両日地蔵盆会が執り行われ、夜には盛大な盆踊りが行なわれる。境内広場の中央に櫓が組まれ、昔はその櫓の四本柱に笹つきの青竹が立てられ、音頭をとる優勝者に与える数々の商品が吊り下げられたという。色提灯が飾られ、日が暮れるとともに、浴衣がけで踊りの輪に加わる青年男女が、音頭にあわせて、華やかに踊り続けられる。ここで行なわれている伝統的な盆踊りを、「流し節」河内音頭という。
5. 八尾寺内町顕彰碑(八尾市本町)
八尾市本町二丁目にある大阪東信用金庫本店前に平成18年12月、「八尾寺内町顕彰碑」が建てられた。顕彰碑は、「森本七郎兵衛旧宅跡」と明示されている。最近の資料から当大阪東信用金庫本店の敷地が八尾寺内町建設に奔走した森本七郎兵衛の「住まい」があった場所と判明したとのことで、八尾寺内町誕生400年にふさわしい発見であった。
6. 八尾城址碑(八尾市本町)
この碑は、八尾神社社殿の裏に建っている。この地一帯を城町と呼び、東方に字木戸がある。八尾別当顕幸の拠城と伝え、楠木正成の戦死後はほとんど北朝方に占拠され、延元2年(1337)10月南朝方の高木遠盛は城内に火矢を城内に射込み、堂舎、仏閣、矢倉、役所をことごとく焼いた。戦国末には、キリシタン大名池田丹後守教正の拠城であった。天正11年(1583)池田教正は美濃に移封され、城は廃された。
7. 森本行誓の墓(八尾市本町)
常光寺境内の西北隅にある高さ221センチの宝筐印塔(ほうきょういんとう)で、正面に「森本行誓居士」横に俗名「森本七郎右衛門貞治 河州渋川郡久宝寺村産住 慶長十一年丙午十二月同州若江郡八尾寺内村開発移住 元和五年己末正月十七日歿」とある。今日八尾の町の発展の基を築いた、わが郷土先人の墓である。
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