■ 史跡など まちの風景 あれこれ その2 参考資料
 「新版八尾の史跡」 昭和62年八尾郷土文化研究会編
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8. 板倉家住宅 河内木綿問屋旧屋敷(八尾市東本町)
この建物は、江戸時代より代々河内木綿をあつかう木綿問屋であったが、大正時代板倉與兵衛氏がこの屋敷地を購入して菓子屋桃林堂を創業された。道路に面して間口の広い主屋があり、木綿蔵であった四棟の土蔵が残る。主屋の外観は切り妻茅葺き屋根のいわゆる高塀造の典型例で出格子や格子窓など伝統的な建築様式がよく残されている。平成11年6月、国の登録文化財の指定をうけた。
9. 八尾浜と久宝寺船着場(八尾市末広町)
長瀬川は、もと大和川の本流で、古くはおよそ200メートルの川幅があり、川舟が往復した。大和川付替え後は、井路川となり、剣先舟が、人や米、材木などを京橋まで積み下し、茶などを大坂から運んできた。年貢米の輸送や、大坂、淀などへの利用が大きかった。八尾の方を八尾浜、久宝寺側を船着場と呼んだ。
10. 伴林光平顕彰碑(八尾市南本町)
この碑は、大正三年伴林光平五十年忌に、光平が住んでいた教恩寺の跡に当時の「伴林会」によって建立されたもの。弘化二年(1845)光平三十三歳のとき、教恩寺住職に来てから文久一年(1861)二月、奈良平群郡東福寺村 駒塚の草庵に移るまで16年間、この地に住まいした。光平は仏事勤行よりも国学、和歌を良くし、御陵の調査にも専念した。文久三年(1863)八月、大和天誅組の旗揚げに参加し、捕らえられて京都六角の牢舎で処刑された。時に五十二才であった。
11. 久宝寺御坊顕証寺(八尾市久宝寺)
浄土真宗西本願寺別院で、連枝の格式を持つ寺院。文明二年(1470)、蓮如上人布教の後「帰する者市の如し」と帰信者が多く、ここに一寺を建てて西証寺と号し、子実順を住持とした。あとを継いだ子実真が早世したので、近江大津の顕証寺蓮淳を迎えて住持とした。蓮淳入寺して顕証寺と改め、河内十二坊の総支配をつとめ、四町四方を画して寺内町をつくり土豪安井氏にその支配をゆだねた。
12. 許麻(こま)神社(八尾市久宝寺)
もと牛頭天王と称され、式内社で渋川郡六座のひとつである。この地は、巨麻荘といい、河内国諸藩の犬狛連の住地で、その祖神を祀ったものと伝えられる。古くは、聖徳太子建立の久宝寺があり、戦国時代には兵火のために消失した。境内にある手洗いの屋形は、その宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りである。
13. 麟角堂創建址碑(八尾市久宝寺)
戦国時代久宝寺城主渋川満貞の創建といわれ、堀川屋敷に諸国の学者を招き、講筵(こうえん)を設けたことにはじまる。天正三年(1575)安井定重がこの学舎を復興、堺の学者今村道和を招いて孔子像をまつり漢籍の講義をした。江戸時代には、伊藤仁斎や東涯も招かれ講筵を開いた。大正二年安田覚三郎が再び復興し、同十一年には私立学舎の認可を受け、漢学の講義を開いたこともあった。
14. 龍華寺址碑(安中小学校校庭)
この碑は、昭和五年当時の龍華町の建碑によるもの。神護景雲三年(769)10月、称徳天皇が弓削道鏡を伴って西京由義宮に行幸の際、当龍華寺に参詣され、龍華寺以西の川上で、河内市人(商人)に市店を開かせ、陪従の五位以上の官人たちに買物をさせて、その市の有様を見学して歩かれ、綿2万屯、塩30石を当寺に寄進された。(続日本紀) これが龍華寺の歴史上における初見である。
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